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ワーホリ・サクセス・ストーリー
新連載 第8回

Yu Sammyさん

R-TRICK社長/シンガーソングライター

今だから作れる歌がある
伝えたいことがいっぱいあるんだ

 何かに疲れ、何かに傷つき、どこか別の居場所を求めて海外へ出る人は少なくない。しかし海外へ出たところで、いったい何をすればいいのか分からないまま、焦りを感じる人もいる。現在ミュージシャンとして活躍しているユウ・サミイさんも、そんな体験をした1人。その焦りから抜け出すべく、40歳にして本当に“やりたいこと”を追求し始めた。

ユウ・サミイ
Profile

■ユウ・サミイさん

 1988年ワーキング・ホリデー・ビザで初来豪。帰国後宝石鑑定鑑別士の資格を取得。同資格を利用し96年にビジネス・ビザ、00年に永住権を取得。07年に独自レーベル「R-TRICK」を設立し、デビュー・アルバムをリリース。現在、シンガーソングライターとして日豪両国でライブやイベントなどに出演している。

■僕は海外に住むんだった
「僕が幼いころ、日曜日に『世界の子どもたち』というテレビ番組をやっていたんです。僕はそれが大好きでね。その時に、将来は海外に住もうと決めたんですよ」。40歳のミュージシャンは、懐かしそうに目を細めた。

 シャンソン歌手である母の影響で、幼少のころから自然と音楽に親しんでいたサミイさんは、母の好きなビートルズなど、主に洋楽を聴きながら育った。一方で、最初に触った楽器が三味線だったというのは何ともユニーク。
  高校生になってギターを弾き始めると、三味線で鍛えた指がものを言った。「自分で言うのもなんですが、その年齢にしては結構上手かったんですよ。地元ではちょっと名の知れた存在でして…」とサミイさん。ギタリストとしての頭角をみるみる現わしていった。
  そんな彼がベーシストに転向したのは大学生の時。ベースの持つ絶大な存在感に惹かれたのだという。「ベースの音って目立たないんですよ。なのにベースが下手だと曲全部がダメになる。逆にベースが上手いと、その曲はめちゃくちゃ良くなる。ベースですべてが変わるんです」。
  いつの日か必ず、自分がプロのベーシストになると信じていたころの青年の面影が、生き生きとベース談義を続ける彼の表情に宿っていた。しかし、その面持ちを一変させて、切なげにこう付け加えた。「でも、東京にはすごい人がいっぱいいるんです。才能のある人なんかごろごろいる」。
  シャンソン歌手の母を持ち、幼少のころから音楽とともに生きてきた彼。地元で皆に一目置かれていた自分の才能を疑ったことはなかった。将来ミュージシャンになるのが当然のことのようにさえ思っていた。それが東京という地で、自分ほどの才能を持つ者がこの世にごまんといるのを目の当たりにした瞬間、行き場を失ってしまったのだ。
  その時だった。彼が、遠い昔にテレビを見ながら胸に抱いたことを思い出したのは。「僕は海外に住むんだった」と。

■現実逃避 ― 来豪
  友人からワーキング・ホリデーという制度があることを耳にすると、大学を休学しオーストラリアへ飛ぶ。その時の心境をサミイさんはこう語る。「海外らしいところならどこでも良かった。おそらく現実逃避だったんでしょう」。
  ところが、サミイさんはオーストラリアという地をひと目で気に入ってしまう。思いがけず出会った雄大で美しい大自然が、傷心した彼を癒したのかもしれない。特にゴールドコーストの海岸線は彼を虜にしてしまう。
  やがてワーホリ・ビザが切れ日本に帰国するも、どうしてもゴールドコーストが忘れられず、大学を卒業すると今度は観光ビザで来豪。そこであることを発見する。「そのころ、ゴールドコーストはオパールの全盛期だった。歩けばオパール店に当たるというほど。それなのに当時、宝石鑑定士がかなり少なかったように思うんですよ。そこで、鑑定士の資格を取れば永住できるに違いないと考えた」。
  サミイさんは日本に飛んで帰ると、さっそく宝石鑑定鑑別士の資格を取得。某宝石店に就職すると店長まで上りつめ、キャリアを積んだ。すべてはオーストラリアで永住権を取るための、5年越しの下準備だった。そして1996年、宝石鑑定鑑別士としての立派な経験をしたためた履歴書を手に、ついにゴールドコーストへと戻って来る。
  宝石店を片っ端から当たり就職活動を続けるうち、努力の甲斐あってビジネス・ビザのサポートをしてくれる店が現われた。それから4年後に、某土産物店のサポートを受け、何とか念願の永住権取得に漕ぎ着ける。ついに長年の努力が報われた。
  ところが、そのころから彼は胸に大きなざわめきを感じていたという。何か大切なものをどこかに置き忘れているような、焦りにも似た感覚が彼の心を蝕んでいたのだ。

■白内障に侵された右目
  そんな矢先、右目に異変が生じる。病院で診察を受けると白内障と診断された。不運なことに、眼球に傷を負った過去を持つサミイさんの右目は、「手術が失敗すれば失明、成功したとしても元通りにはならない」と告知される。病院を何回変えようとも結果は同じだった。「どんどん見えなくなってきて…、人間って、こんなに簡単に失明するんだ、と唖然としました。そして人間の寿命についても深く考えさせられた。その時、『やれる時にやりたいことをしなければ ! 』という思いが強く湧いてきたんです」。
  これが、ずっと昔に諦めたはずの、そして決して諦め切れなかった本当の夢…ミュージシャンの道を再び歩もうと決意した瞬間だった。自分の中の音楽に蓋をしてから既に20年が経過していた。40歳を目前に、経済的保証など何もないミュージシャンを目指そうと決意した彼。そこには人知れぬ心の葛藤があったに違いない。
  意を決して臨んだ右目の手術は成功し、幸いにも失明は逃れたが、小さい物や動く物に焦点を当てられないというハンデが残った。それどころか、今後いつ失明してもおかしくないと医師から聞かされているという。けれどそれは彼を悲しませる要因ではもはやない。「例え失明しても、僕の大好きな歌は歌える。もう何も恐くないんです」。

ゴールドコーストの美しい自然が彼の音楽を後押しする

■今だから作れる歌がある
  ギターの弾き語りという、昔とは全く異なったスタイルでたった1人、自分の居場所と定めたゴールドコーストでひっそりと音楽活動を再開したのが2006年。人間味のある彼の温かい歌声が、口コミやネットを通して広く知れ渡るのに、さほど時間は要さなかった。ゴールドコーストの某サーフ・ショップがスポンサーに付き、その後インディーズ・レーベルを立ち上げたのが今年の2月。7月には、大切に温めてきた6曲を収録したデビュー・アルバムをリリースした。
「当時はただ、楽器を弾く人(ベーシスト)になりたかった。でも今は歌いたい。伝えたいことがいっぱいあるから」。真の夢を実現させるまでに経た、遠回りをしたようにも見えるその長い歳月こそが、彼に言葉を持たせたということなのだろう。「40歳になった今だから作れる歌がある」と彼は言う。
「たった1人でもいいんです。1人でも僕の曲を聴いてくれる人がいるなら、僕は幸せです」。最後にそう語った彼の表情は、穏やかで喜びに満ちていた。 



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