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日豪プレス創刊30周年記念インタビュー?

シドニーのビジネス・シーンで活躍する皆さんに聞きました
30歳だった時、何をしていましたか?

里崎惠さん
ネイルブティーク ラ・エム主宰

海外で起業するというビジョンは明確にあった

里崎惠さん 略歴
英国ロンドン・ピットマン・セントラル・カレッジ卒。CATVのキャスターを経て98年渡豪。番組制作、執筆活動の傍ら2001年、ネイルのスクール、オリジナル・プロダクト、ファッション・ショー、雑誌のプロモーション、ウエディング・ネイルなどを行うネイルブティーク ラ・エムを設立。来年からは本格的にTV事業に復帰し、TVと美容のコラボレーションを展開していく予定。

Q:30歳の時、何をしていましたか?
A:日本のケーブル・テレビ(CATV)のキャスター(アナウンサー)をしていました。時折海外にも取材に出ていました。

Q:30歳の時、どんなことを考え、どんなビジョンを描いていましたか?
A:昔から海外志向があり、基本的に海外に生活拠点をおいて、TVレポートや番組プロデュースをしたりする、または海外で起業するというビションは明確に描いていました。そんな中、TV局の仕事の関係で豪州滞在中に現在の夫と出会い、98年に本格的に移住。99年〜2000年にかけては、シドニー・オリンピックに関するTV番組をプロデュース、自らも出演し、日本の雑誌や地方紙に執筆したりしていました。その一方事業としては、かねてから興味のあったネイルのポテンシャルに賭けてみようと、「ネイルブティーク ラ・エム」を01年に立ち上げました。海外でのビジネスは、やりがいがあります。


林由紀夫さん
林由紀夫法律事務所

仕事に追われ将来のビジョンを 描く暇もなかった

林由紀夫さん 経歴
1979年NSW大学法学部卒業(法学・法理学士)、80年、NSW州弁護士資格取得、同年フリーヒル・ホーリングデール&ページ法律事務所に就職。84年同事務所パートナーに昇格。96年8月、林由紀夫法律事務所を開設。

Q:30歳の時、何をしていましたか。
A:ちょうどフリーヒルズ法律事務所のパートナーに昇格。怖いもの知らずでがむしゃらに凄い(怖い)案件をバシバシやっていた時期。例えば、そのころとしては非常に大きな100億ドルのQLD州政府と絡むファイナンス業務で、東京とシドニー、QLD州を何度も往復していました。また、次男が誕生した年でもあります。

Q:30歳の時、どんなことを考え、どんなビジョンを描いていましたか。
A:とにかくバブルの始まりで、目まぐるしく忙しく、飛行機はファースト・クラス、ホテルは5つ星、電車はグリーン車、オフィスからは素晴らしい眺め、また請求額も今より0が2つも多い時代で、本当に「弁護士ってスゲーなー」と思っていました。「本当にこのままずっといくのかなぁ」と若干の不安もありました。目先の仕事に追われていて、将来のビジョンを描く暇もないような状況でした。


吉田謙一さん
日本旅行オーストラリア・シドニー支店長

毎日が真剣勝負。異国の地で きちんとした足場を築くのに懸命でした

吉田謙一さん 略歴
1983年来豪。84年移民用の英語学校へ半年通学。85〜88年、「サントリー・レストラン」でマネジャーを務める。88年、日本旅行オーストラリア入社。同年に日本で真剣に取り組んでいた空手を再開。93年より国際空手道連盟極真会館BONDI本部道場で師範代として豪州人に指導開始。

Q:30歳の時、何をしていましたか?
A:仕事と空手の毎日でした。

Q:30歳の時、どんなことを考え、どんなビジョンを描いていましたか?
A:当時カンタスの直行便は週2便のみの運行で、エコノミー料金も現在のビジネス・クラスの様な料金でした。また、現在のようにオーストラリアは観光地として有名でなく、環境的に2度と日本へ戻れない覚悟を持って「背水の陣」で来豪したため、毎日が真剣勝負。異国の地できちんとした足場を築くのに一生懸命でした。生きていくために仕事を頑張るのはもちろんですが、特に空手は自分を移民として受け入れてくれたオーストラリアへの恩返しと、自分の背中を見て少しでも日本人を尊敬してくれるよう常に日の丸を背負った気持ちで日々を送っていました。そして現在も同じ気持ちです。


アイク池口さん
トラトラ(Travel and Travel)社長

自分で何かしたいといつも考えていました

略歴
19歳から2年ほど(猿岩石のように)世界を放浪。最後にアメリカにたどり着く。その後、高校時代からの夢だったアメリカの大学に留学。卒業後、日本に帰り就職したが、やはり海外生活が忘れられずオーストラリアへ渡る。シドニーで旅行会社に10年勤務、その後トラトラを立ち上げ、10年が経つ。

Q:30歳の時、何をしていましたか?
A:日本でアパレル関係で働いていました。

Q:30歳の時、どんなことを考え、どんなビジョンを描いていましたか?
A:日本では、仕事仕事で忙しい毎日を送っていましたが、いつも自分で何かしたいとは、夢のように考えていました。


中田みささん
中田不動産

ビジネスの世界でどこまでやれるか 自分の可能性を試してみたくて仕方なかった

中田みささん 略歴
日本の経済に大きく貢献した人に送られる勲五等藍綬褒章を受勲した澤田茂雄とその妻文子の間に生まれる。大阪音楽大学ピアノ科、大阪教育大学大学院作曲科研究生を経て、高教教師になる。読売テレビ番組「私のピアノコンサート」に出演。政治家との付き合いが多かった父親の影響を受け、1度しかない人生を狭い音楽の世界だけでなくビジネスで生かそうと、86年に家族で来豪。87年に始めた現地の不動産会社との共同経営を経て89年、100%出資の中田不動産を設立。未知の分野へ意欲的に挑戦する性格から、「インターネット落ちこぼれない同好会」「シドニー2000音楽同好会」などを発足。また、97年に「オーストラリア起業塾」を設立。徹底した動物愛護者でベジタリアン。趣味は水泳。

Q:30歳の時、何をしていましたか?
A:高校の教師を辞め大学院へ戻り、作曲科でいろいろな曲を作曲しつつピアノ塾を経営したり、テレビ番組にピアノ教師として出演していました。運動はテニスをスタートしたところで、フォームが一番大切と頑固な自分自身のポリシーを崩さず、いつも空振りで、コーチからどんなフォームでもいいですからヒットしてくださいと、しつこく言われていました。しかし、自分自身のポリシーが3年後には生きて、市のテニス・マッチで優勝でき、「どの分野もポリシーが通じる」と若さ故に単純に満足していました。

Q:30歳の時、どんなことを考え、どんなビジョンを描いていましたか?
A:30年間、音楽の世界に携わってきましたが、父が勲5等藍綬褒章を受賞(皇后陛下のお父様と同じ賞)したことをきかっけに、「狭い音楽の世界だけで一生を終わりたくない」とビジネスの世界での活躍を夢見ていました。その後、自分の可能性を試してみたい」と86年に来豪するに至りました。父は世界30カ国以上を訪問しており、オーストラリアについてはある程度聞いていました。また、子どものころから、お土産のコアラのぬいぐるみを大切にしていました。きっと、生まれた時から私の半生は、オーストラリアでと決まっていたのかもしれません。


松村タケヒロさん
ツアーランド・オーストラリア社長

豪州の本当の魅力を体験するには 自由旅行しかないと考えていた

松村タケヒロさん 略歴
大阪に生まれ育つ。中学・高校とラグビーに没頭。大学卒業後、貿易商社に入社し商社マンを目指すが、アメリカのラスベガスの現地旅行会社で職をみつけ、旅行業界に飛び込む。サンフランシスコ勤務を経てロサンジェルス本社でダイレクターとしてマネジメントを経験する。新天地を求めて15年前にオーストラリアへ。現在は自由旅行者のためのトラベルラウンジ、ツアーランドの代表を務める。財団法人ロングステイ指定現地サロン「 ゴンドワナクラブ」主幹。

Q:30歳の時、何をしていましたか?
A:アメリカに住み現地旅行会社に勤めていました。ちょうど長男が生まれたこともあって、治安の良い新天地を探したところ、オーストラリアに何となく興味が湧き来豪。同じ旅行業の仕事をしていました。

Q:30歳の時、どんなことを考え、どんなビジョンを描いていましたか?
A:バタバタと忙しくしていたようなオーストラリアでしたが、今と違って毎週土・日ともなるとすべてのお店が閉まる。焦っても仕方ないので、結局何もしないでのんびりするしかないと思うようになり、そんなペースと月曜日からのギャップのあるオーストラリア生活にはまってしまいました。そんな中、できるだけ時間を見つけて国内をあちこちと旅行したり、いろいろな体験をしました。その時、あまりにたくさんの素晴らしい場所があるにもかかわらず、旅行社向けのガイドブックにはある特定のスポットしか紹介されていないことをとても残念に感じたのを思い出します。その思いから、団体旅行だけでなく、より自由なスタイルで旅ができるようになれば、オーストラリアの本当の素晴らしさを体験してもらえる。日本からの旅行者のためにそんなことを考えていました。


定松勝義さん
鱒屋グループ社長

シドニーでのレストラン・ビジネスでの 再挑戦を狙っていました

定松勝義さん 略歴
1961年12月生まれ。84年、ワーキング・ホリデーで来豪。85年、オーストラリア移住。シドニー市内で「鱒屋」「武蔵」「誠」2店舗の計4店舗のレストランを経営。

Q:30歳の時、何をしていましたか。
A:日本のバーモント・カレーがオージーにも受けると確信して立ち上げたカレー店で、休日も返上、週7日、たった1人のシェフとしてカレーを作っていました。しかし、5年間経営したカレー店は結局うまくいかず、閉店。妻、娘2人を抱えながら、いろいろなレストランでホール・マネジャーやシェフとして働いていました。

Q:30歳の時、どんなことを考え、どんなビジョンを描いていましたか。
A:夢を挫折し、失望のどん底にいました。さまざまなレストランで働きながら、いつかは再び、レストラン・ビジネスでチャレンジしたい。オーストラリアにはない何か新しいことを始めたい。いつもそう考えながら、人生を模索していました。シドニーのダーリン・ハーバーにあるシーフード・レストラン「ジョーダンズ」のキッチンで働いていた際には、海鮮食材とワインをいかにマッチングさせるかを研究するなどのほか、豪州で成長していく観光業をはじめ、大きな時代の流れを肌で感じ取っていました。次第に、その当時はなかった鍋物を中心としたシーフード・レストランを模索するようになり、それから2年後に、現在の店舗があるシドニーのオコーネル・ストリート12番地に「鱒屋」をオープンさせました。


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